⑤平成10年 その2
決勝戦は両チームの気持ちの差が序盤で如実に現れ、それが早い段階で試合を決することとなった。…
念願の甲子園へのキップを手に入れても、チームはあくまでも挑戦者の心意気を保っていた。キャプテンの中村仁は「うちは弱いんです」と明言する。だが、同じインタビューでマネージャーは「うちの良さは、全員が自分の役割を自覚していることです。全員野球のために何をするかを考えています。」と付け加えた。キャプテンもマネージャーもその言葉に嘘はなかった。一人ひとりは、抜きん出たちからがなくとも、互いの役割の自覚こそが、この年のチームの真骨頂だった。 山口真一著 全員野球 中村良隆物語より
中村仁監督の選手時代のエピソードです。このように丸子修学館野球部「全員野球」は、中村良隆元監督のもとから中村仁監督に確実に受け継がれています。 栗原
④平成10年 (中村良隆物語より) 佐久長聖高校 当時中村仁主将
この年のチームは、総じて選手の体も小さく、力もなかった。前年の引き継ぎを終えた頃から弱いというレッテルを貼られ、秋季大会では上田西高校に全く歯が立たなかった。夏以上の屈辱的な負け方で終わった。近年力をつけてきている県内の私立高校野球部の中にあっては、今夏も甲子園出場がほぼ無理だろうとの見方が衆目の一致するところだった。中村良隆にしても、野球の技術面では、かつての2年連続甲子園出場を果たした松崎や宮田がピッチャーを務めていた時代のチームにはとても及ばないと捉えていた。しかし、この年のチームには中村良隆の全員野球の理念を自分たちなりに理解、消化した上で実践できるチームとしてのまとまりと集中力にたけていた。3年生たちは平成8年秋の北信越大会にスタンドで味わった感動、それを自分たちがグラウンドで再現して終わりたいという夢があった。ピッチャーは1人のエースが常に投げるのではなく、3人が担った。技術や力ではなく、みんなが結束、考えて実践する野球を目指すという、今までの佐久長聖には見られないチームが出来上がりつつあった。監督からは常に「お前たちには力がない、センスがない」と言われても、キャプテンの中村仁を中心に「考える野球」を基本にして、自分たちで勝てるための任務を決め、そこから全員野球を成し遂げるための糸口を見つけようとしていた。春季大会で強豪の松商学園に大差で勝ち優勝したことが「考える集団」に勇気を与えた。「やれば出来る!」と、自信が湧いた。この時期になって冬期間の練習の成果が表れつつあるのを中村良隆も実感した。
夏の大会が始まる始まる。….. 3年ぶりの甲子園出場をかけた決勝戦は、やはり2年ぶりの出場を目指す南信の私学の雄東海大三高校が立ちはだかった。準決勝では松商学園を下し勢いづいていた。試合前、中村良隆はインタビューに対して自戒の気持ちを語った。「今大会は、九割以上の確率で松商が相手になると踏んでいた。しかし、高校野球の勝ち負けは実力だけでは決まらない。相手がどこでも、同じ気持ちで向かわなければ痛い目に遭う。」とキャプテンの中村仁は試合前「今までと同じ全員野球をやろう」とナインをまとめ、相手投手の「見た目より手元で球が伸びる」というデータから、今まで通りに単打でつないで足を絡めた攻撃に徹する戦法を確認した。 つづく
③丸子実業高校 最高成績甲子園ベスト8へ
昭和40年春、東信大会決勝で上田に勝利し県大会へ、県大会でも大町を決勝で破り優勝、勢いそのままに北信越大会へ出場します。北信越大会でも勢いは止まらず上市・高岡を破った丸子は敦賀に2-0で勝利し北信越初優勝します。波に乗って夏の大会、伊那北・塚原・長野・野沢北を倒し、臼田高校との決勝戦を7-0で飾り選手権大会へ初出場を果たします。
甲子園で強豪天理に挑んだ初戦、8回の裏に先制点を許しますが9回に3点を挙げて見事に逆転勝利、続く佐賀商業戦は序盤から得点を重ね11-3で勝利、準決勝進出をかけて挑んだ銚子商業には惜しくも0-3で敗れベスト4への進出はなりませんでしたが「甲子園ベスト8」と現在も輝く成績を収めました。優勝したのは福岡県の三池工業、準優勝はその銚子商業で、エースで4番であった木樽投手はその後東京オリオンズ(千葉ロッテ)に入団し2軍監督まで務めました。また、この時の丸子実業高校主将は現在の宮崎OB会長様です。とても偉大です。(栗原)